2006年12月04日

味わいとしての「性」

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写真研究者の小林美香がmixiで紹介していた2つの写真広告。人生のあらゆるものをグラサンの向こうに隠し持ったジジイと、純度100%の瞳で見つめる汚れを知らない少女の対比が素敵。さらに「もう飲りましたか、処女の味」だなんて最高にイカしたコピー。いいなぁ、昭和の広告。

これに対しての小林美香のコメントは以下のとおり。

どこで捜してきたんでしょうね、このジジイ。多分イタリア人だと思うけど。日本人のオッサンだったらもっと嫌ぁな感じになったと思います、女子は日本人ぽいのよねー、白人女子は「味わう」対象にはできなかったのでしょう。「外人男が日本人女子を」という形をとることで成立してるんじゃないかと。

mixi:小林美香の日記「処女の味って、、、」

さすが、写真研究者。踏み込み方がちがう。ちなみに彼女は研究の軸を「写真を読む」ということにおいていて、「写真を「読む」視点」(青弓社)なども執筆している。



小林美香「写真を“読む”視点」


で、これの日記に対して何件かのコメントがはいっているのだけれど、これがけっこう批判的でおもしろかった。いずれもおそらく女性うんぬんの文脈の話のように解釈できる内容。中には「カンパリもう飲みません」的なものまで。ふーむ、そうなんだ。

まぁそれはともかく、すくなくとも男性の立場からして「味わいとしての性」というのはある。それは歳をとればとるほどきっとわかるようになる感覚かもしれない。雑誌のグラビアモデルの悩ましげな腰つきをじっと見て「うん、そうだ。たしかにそうだ」と納得するあの感じは、快感というある種の抽象を分解しきれないまま受入れるという意味で「味わう」ことによくにている。分解しきれないままに受入れるために必要なのはきっと経験だったり物語だったりする。だからきっと歳を食えばだれもが味わうものが増える。

ジジイがキャンパリを口に含んだその時、きっと彼の頭にはかつて経験した数え切れない甘くてほろ苦い想い出がよみがえる。そしてジジイは隣の男にこう口にする。「もう飲りましたか、処女の味?」

……いいじゃん、ジジイ! 個人的にはぜんぜん「あり」。


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写真集「カンパリ色のイタリア」

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2006年11月20日

縁がない

先日、ミナミで美容室を経営しているある女性が亡くなった。歳は40歳くらい。無愛想だったりワガママだったりでいろいろと面倒くさいタチだが、美容師としてはかなり力のある人だった。と、さも近しい知人であるかのように書いたが、彼女は僕の知り合いの知り合いでしかない。僕は彼女のことを直接知らないし、たぶん彼女も僕のことを直接は知らなかった。ただ少し気になる話として、彼女は僕のまったく違う接点のない2人の友人の知人だった。僕はまったく違う接点のない2人の友人から偶然にも、告別式の会場となる教会の名前を聞いた。

直接存じ上げない人などで、個人的には正直それほど湿っぽい話にもならない。むしろ「縁がない」とはこういうことなんだなとぼんやりと考えたりした。知り合いを 6人たどれば世界中の人と繋がっているなんて話もあるくらいなので、実は2人どころかもっとたくさんの知人や友人が彼女と接点をもっていた可能性はある。それでも僕と彼女は結局のところ最後まで出会うことはなかったわけで、まさに「縁がない」ということになったわけだ。その理由は、彼女が美容師で、僕が坊主頭だということだけではない、もうちょっと運命的な話なのかもしれない。

「縁がない」ということを実感する機会は「縁がある」ということを実感するよりもずいぶんと少ないかもしれない。そんなことを縁がない人の死から考えた。

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2006年10月25日

個展「言葉のある風景:應典院」における作品の《紛失》について

現在開催中の展覧会「言葉のある風景:應典院」で展示している作品が一部紛失しました。紛失したのは下記の作品です。

「発想記号のための練習曲 No.1〜4」
・発想記号のための練習曲 No.2
・発想記号のための練習曲 No.3

「Calendor series "ONEDAY"」
・ゴミ箱部分

あえて《紛失》と書いたのは、その内容がおそらく《盗難》と《破棄》の可能性が考えられるためです。具体的には「発想記号の〜」の紛失はおそらく《盗難》であり、持ち帰った人に悪意があったにせよ無かったにせよ、展示状況から考えて《盗難》であるとして問題ないかと思います。また「Calendor〜」の紛失は、おそらくその展示形態から考えて《破棄》だと想像されます。誰かが作品だと気付かずに捨ててしまったのだと思います。

どちらも紙を素材としたマルチプルな作品なので、一見するとテイクフリーだと受け取られることもあるでしょうし、また最悪の場合は作品だと気付かない可能性もあるものだと、作者である僕自身思います。また会場がギャラリーやミュージアムではなく、お寺(これはこれでまた違う重みもあるとは思うんですが)の中にあるパブリックスペースであるという点も原因としてはあったと思います。ただそういった状況も考慮した上でも、作品の一部を持ち帰ったり捨ててしまった人はずいぶんと無神経だなとは正直思います。

私自身はこの件に関して、責任の所在を追求したり、ここぞとばかり作家の権利を主張したりして、問題を大きくする気はありません。作家自身がこういう事を言うべきではないのかもしれませんが、アートなんてそれがアートであることを気付いてもらわなければなんの価値もありません。そのために美術館やギャラリーのような白くて大きな壁、もしくは明らかに市場価値とは分離した価格、といったある種の後ろ盾を用意する方法もあります。しかし作家は、何より作品としての強度を、アウトプットの方法も含めて、強くしていかなければならないのだと思いますし、今回の一件を僕はそのような問題であると理解することにしました。

ただし、もし僕の作品を実際に捨てたりもって帰ったりしてしまった人が偶然にもこのエントリーを読んだら、その時はとりあえず連絡してきてひとこと詫び入れにきてください。で、可能ならば作品を返却してください。

作家にとって作品とは貴方が思っている以上に大事なものなのです。

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2006年10月19日

イーホームズ・藤田社長の大暴露 〜 結局メディアの向こう側なんてホントかウソかわかるわけない……ってことを、前提の話。

テレビも、新聞も、ネットも、結局のところメディアの向こうなんてホントかウソかわかるわけない……ってことを、前提の話。

イーホームズ・社長の藤田東吾が18日の判決後に開いた記者会見で、とんでもないものを出してきた。ド派でなオバハンで有名なAPA(アパ)グループが販売する3つの物件の耐震偽装の告発。さらにそのことを国が隠蔽するための自分は逮捕されたのだという話。

「東京地裁での判決に際して、マスコミの皆様へ、そして国民の皆様へ」

今日、東京地裁で、僕に対する判決が出ます。
耐震偽装事件に関係した裁判では一番最初の判決です。
僕は、この裁判の容疑や内容については、話す意味がないと思いますのでコメントはしません。

僕を逮捕した本当の理由は、国が、アパのマンションやホテルの偽装を隠蔽するために、藤田東吾を逮捕して黙らそうとして、行なったものと考えています。

ちなみにAPAのオバハンは安倍晋三後援会の副会長。あちゃー。

このことが明るみになったのはテレビでも新聞でもなく、またしても「きっこのブログ」だ。あいかわらず素性のはっきりしない自称ヘアメイクアーティストは藤田氏と逮捕後も連絡を取り合っていたらしく、「ここに書かれてる内容は、当然、100%真実だ」と断言した上で、記者会見でプレス関係に配られたのと同じ原稿をブログに転載している。ちなみに発表が判決日になった理由は、藤田社長に対する当局からの圧力が強くなることをさけるためとのこと。これを受けたマスの対応はもちろんスルー。一部新聞にいたっては告発意外の部分だけを取り出して、藤田氏がプレスを集めて一方的にわめき散らしたといった扱いだった。

うーん、で、ホントのところどうよ? APAグループと政治との関係を考えると、やっぱ何かしらの圧力がかかってるのかという気になる。しかし藤田告発のウラが取れるわけでもない。というか、藤田氏の発言の中には、構造計算書の改ざんが可能だった状況を作り出した財団法人日本建築センターと国土交通省住宅局建築指導課に責任を転嫁(いや、もちろん責任はあるんだろうけど)するような内容もある。きっこのマユツバな部分だってまったく否定できない。

結局のところ、いくらメディアでごちゃごちゃなったところで、末端でそれを受け取ってるエンドユーザーには事実が事実であるかを知る術なんかないように思う。いや、術あるかもしれないけど、自分が住んでいるわけでもないマンションの耐震偽装とその裏でうごめくあれやこれやにわざわざ自分から足突っ込んで調べるほどヒマでもないわけで。

でも、わからんからって黙殺しちゃいかんよね。ってことで、せめてブロガーの端くれとして書いて「保留」にしておきましょう。

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ちなみに「渡る世間はウソまみれ」って話は、元王子様の小沢健二が父・小澤俊夫が責任編集で発行している季刊誌「子どもと昔話」で連載中の「うさぎ!」の中でいろいろ書いてる。昔からの小沢ファンにすれば決しておもしろい文章じゃないし、もちろんそこで書かれてる内容だってホントかウソかなんてわかりっこない。わかりっこないけど、わかりっこないって前提を持ってるか持ってないかは大切だし、そのための材料はたくさんあるにこしたことはない。

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2006年05月23日

さまざまなものと引き換えに

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crocsを手に入れた。少し前に明石のアウトレットで見かけて以来、心斎橋、梅田、神戸と探しまわってようやく手に入れた。買ったんじゃない、手に入れたんだ。

それが証拠に僕はたくさんのものも失った。例えば、MacBookを買う気とか、停止線無視の罰金とか……

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2006年04月12日

青木伊知郎の一件について

先日の宝塚市長選挙、地元では認知度の高かった無所属の元衆院議員の阪上善秀氏が当選した。投票率は45.62%。阪上氏には渡部完前市長が汚した宝塚市政をぜひとも立て直すべく、がんばってほしいと思う。

さて、先日も書いた青木伊知郎の一件……
http://mediapicnic.com/hibikate/archives/2006/04/post_76.html

これ見よがしにgoogleへのリンクまで載せていたわけだけれど、気がついたらなんと検索結果のトップに表示されるようになっていた。ちなみに青木氏は阪上氏の約半分の票を集めて2位で落選。この結果に自分の書いた文章がどれほどの影響を及ぼしたかは分からない。しかしアクセスログなどを見る限りでは、それなりに多くの人にこの小さな事件(?)について知ってもらうことは出来たかと思っている。

自分は特に特定の正当や政治家を支持しているわけでもない「無党派層」なので、そういう意味では青木氏の落選を願っていたわけではない。ただ、あんな無神経なやり方で票集めをしようとする人間が、市民の代表者としての責任感を持って、きめ細やかな政治が出来るとは私には到底思えない。だから宝塚市民のひとりとしてああいう形で声を上げさせてもらった。ただその小さな声がこのようなカタチで多くの人に届きうる可能性を今は誰もがネットを通して持っているわけで、それはすなわち誰もが派発言に対する責任とその上でしっかりとモノ申す発言力を身につけることが求められているのだなと改めて感じている。。

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2006年04月04日

店長の経験のある方

マルセイユにすんでいた頃、とあるイカれた日本人留学生に「好きな女性のタイプは?」と聞いたら、即答で「共産国のオンナ」と帰ってきた。まぁいろいろ言いたいこともあるけれど、なんとも明快かつ奥深いお答え。「答え」というものはこうでなくては。。。

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ということで、それ以来自分も「好きな女性のタイプは?」との問いにコレという答えを探しているのだけれど、先日なかなか悪くない答えが見つかった。それが「店長経験者」。年齢的には当然20代後半〜30代中ば。店の業種はそれほど問わないけれど、しいて限定するならオリーブ系な飲食および服飾雑貨。さっき食べた焼肉もブッとぶアイスのような甘さに垣間みるレジや厨房まわりの現実感がとってもセクシィ。やっぱ女性はヤリクリできてナンボでしょ!

ってこの答えは誰にとっても明快なのか?


※写真はイメージです。

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2006年01月06日

「拡」から「質」

清水寺発表によると昨年を象徴する一文字は「愛」とのこと。いまさら「愛」などと言われたところで「愛・地球博」ほどの軽薄さしか感じないけど、まぁそうまで言わせるほどに寒々しい時代だということか。

個人的な2005年をは「拡」。美術をはじめいろんな活動がそれなりに知れわたって、活動の幅がちょっとずつだけど確実に広がった。なかでも208をやってきたことの成果は大きくて、たった2年足らずで大阪ではずいぶんと動きやすくなったように思う。有り難いことに年末には208を知り合った数人から実際に仕事をいただいたりもした。いまさらだけど場を持つってことのメリットはすごく大きいと実感。

で、そういう「拡」な状況を踏まえて、今年の目指すべき一文字、「質」。広がりが見えた今だからこそ、いい作品を作って、いい文章を書いて、いい人と知り合って、いい恋をする……2006はこれで行こう。

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2003年09月03日

ある天才について

小沢君が昔だしたシングルを集めてベストCDをリリースする。発売日は先月末だったので本当なら「リリースした」と書きたいところだけど、あいかわらず彼はその鼻持ちならないマイペースさと天才ぶりでレコード会社を振り回しているようだ。ちなみにタイトルは「刹那」。もちろんそれはわかっていたことだけど、時代はもうニ度と帰らないってことをあらためて知る。

評論家じゃないのであまり分析めいたことを書きたくはない。ただ僕は彼が残していったそれほど多くない優しさとか美しさとかを大事に抱えながら、遠く離れたマンハッタンの地で今の彼がどんな気持ちであの頃を思い返そうとしているのか、できればそれがポジティヴだったらいいなと願うしかない。そしてまたいつかみんな同じ場所に帰ってきて、優しさとか美しさとかをみんなで見れる日がくればいいなと思う。

あぁ、なんだかちょっとしんみりしちゃうよね、まったく・・・。

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2003年07月15日

たばこの味

このところタバコをどうやって旨く吸うかについてよく考えている。私は人並みのヘビースモーカーであるが、実のところタバコの味についてそれほど執着したことがなかった。火がついて、煙が出ればそれでよかったのだ。

よく考えれば実に馬鹿げた話である。喫茶店の隣の客にはいやがられ、人よりもたくさんの税金を払い、そしてまちがいなく健康を害している。それでタバコが旨いと感じているかというとそういうわけでもなく、ただ単にそれが習慣化したというだけの話だ。ふつうこんな風に考え出すとそれこそ甘ったるいガムを始終くちゃくちゃやりながら禁煙でも試みるのだろうが、私の場合はどうやって旨く吸うかという方向に考える先が向かったのである。

方法は実に簡単である。とにかく時間をかけてゆっくり吸う、そしてタバコを吸う時はほかに何もしないということである。あと、フィルターをあまり濡らさないように心掛けたり、煙を吐き出す速度を落とすことも有効だ。たったそれだけでタバコはタバコの味をずいぶんとりもどす。タバコの味というのはよく味わってみるとずいぶん刺激的で、同じ味覚でも食べたり飲んだりして感じるそれとは明らかにちがうピリピリした感じがある。

このところ喫煙への風当たりはきついが、私はまだとうぶんはタバコをやめることはないだろう。15年目ニしてようやく、ただ迷惑をまき散らす喫煙者から喫煙愛好家になったのだから。

09:30 | 固定リンク | コメント (0) | | トラックバック (0)