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【宝塚市】市の文化振興に対する提案とか書いてみた

2011年12月19日 | 岩淵拓郎の仕事 | del.icio.usに追加 | はてなブックマークに追加 | livedoorクリップに追加

今年の5月くらいからちょっと訳あって宝塚市が主催している「宝塚市 文化の薫る町づくり研究会」というのに参加してるんですが、そこで市の文化振興に対する提案みたいなのを書く宿題が出たので、せっかくだからいろいろ書いてみました。

考察1:「芸術が薫る町・宝塚」のイメージ

 「働く町」「作る町」「集う町」……人の集合によって形成される町は、そこで人々がどのような営みを行うかによって特徴づけられます。わたしたちの町である宝塚は、かつて「暮らす町」であると同時に「観光の町」として発展を遂げてきました。しかし現在では、その一方をほぼ失い、事実上「暮らす町」として機能し存在しています。

 暮らす町に芸術が薫るということ(本分科会が芸術・文化に特化したものであることを考慮し《芸術》に限定しました)。それはつまりそこで暮らす人々の生活の中に芸術があることにほかなりません。特別ではない毎日の生活の中に特別でないこととしてそこに芸術があり、芸術家がいて、それを楽しむ人々がいる。そして、そこから自然な文化的な交流や交換が生まれ、時にはそれが新しい表現が生む種となり、さまざまなかたちで町の中で芽吹いていく。そんなある種の《循環》こそが宝塚において芸術が薫ることだとなのだと考えます。

 こうした暮らす町における芸術の有り様は、他の営みによって特徴づけられるどの町とも異なります。すなわち、一流であることよりも良質であること有名であることよりも身近であること格式高いことよりも気軽であること……そんなことが大きな意味と価値を持ちます。それは、例えるなら暮らす町にある評判のよい町の小さなレストランとも似ています。味もサービスも値段も最高級というほどではない、しかし週末のひと時に彩りを与えるには十分に美味しく、居心地よく、店主の顔も見えて、たまには隣の席に居合わせたご近所さんと顔を合わせることもある。そんな「ちょうどよさ」こそが、暮らす町において人々に愛され、結果的に町の中で機能していくのです。

※ちなみに創造都市研究の第一人者であるリチャード・フロリダは、文化的な市民を惹きつける町の条件のひとつとして、チェーン店でない素敵な飲食店が数多くあることを挙げています。

考察2:宝塚を「芸術が薫る町」にするための 宝塚市が行うべき支援について

 芸術にまつわるさまざまな営みは、言うまでもなく市民(個人と言った方がいいかもしれません)によって行われるものであり、行政ができるのはこれら市民の営みに対する広い意味での「支援」にほかなりません。 あたり前のことですが、行政には自ら芸術を生み出すこともそれを愛好する人たちを作ることもできません。

 これは「宝塚を芸術が薫る町に」という課題においても同じです。それは市民の芸術にまつわる営みの集大成として立ち表れてくるものであり、その実現のためには行政による適切な支援が行われることが必要です。(不可欠とまでは言いませんが、無いとたぶん実現しません)

 集大成と書きましたが、いろんな営みをやみくもに一箇所に集めてもまるで意味はありません。【考察1】でも触れましたが、暮らす町・宝塚において芸術文化が薫るためには、ちょうどいい距離感で循環を起こすことが必要です。循環の構造をわかりやすくするために、同様の議論で一般的に言われているようなことを自分なり解釈して概念図として示します。

201112_kaorukai_image.jpg

 このような循環を即すために行政は適切な支援を行う必要があります。支援の範囲というか対象は(特定の団体や個人という意味ではありません)は上記にも記したとおりです。どこから手をつけるかという問題はありますが、どの部分が欠けても循環は滞ってしまうので、結果的には上記のすべてに支援する必要があります。しかし昨今の厳しい財政状況ほかを考慮すると、支援の方法をよく考え、絞り込み、想像力と発想力をもって柔軟に解決していくことが必要です。支援とはそこにお金を投下することだけを意味するものではないのです。

提案1:鑑賞者に多彩で柔軟な 芸術鑑賞の機会を!(条件付き)

 良質な芸術に触れることは、私たちにとって豊かな文化的気づきを与えるものです。何をもって良質とするかはさておき、少なくともこの点に関しては本分科会でもコンセンサスが取れた数少ない内容であると思われます。

 ただ、「芸術に触れる」といってもその内容は一つではありません。作品を鑑賞することは言うまでもありませんが、その他にもアーティストと協働すること、鑑賞した作品について誰かと語り合うこと、さらにそうした経験から刺激を受けて自らなにかしらの表現行為を行うことも、芸術に触れる立派な方法です。実際ここ数年の芸術の流れはそうした傾向は非常に強く、現在全国で行われるアートプロジェクトの多くは鑑賞よりはむしろ参加や対話に重点が置かれていたりします。

 では、宝塚を芸術の薫る町にするために、宝塚市が鑑賞者に対して提供すべき芸術と触れ方とはどのようなものでしょう。もちろんその全てが提供できることに越したことはありませんが、現実的な予算などをかんがえると不可能です。とりわけすでに社会的に評価が担保されている有名な芸術家の作品鑑賞の機会を提供することには大きなお金や手間がかかります。

 また【考察】で述べた「暮らす町における芸術の循環」という観点から考えると、外から有名な芸術家を招聘するよりはあまり得策だとは言えません。むしろ宝塚市が行うべきは、宝塚在住の芸術家に重点的に焦点を当て、彼らの作品や仕事に触れるための多彩な機会を創出することにあると思います。それは一流の芸術家の作品を鑑賞することに比べるといささか見劣りするかもしれませんが、自分たちが住む町にそのような芸術家がいるということを感じることは何物にも代えがたい意味を持っていると思います。(引き合いに出して申し訳ありませんが、当部会に参加されている大野良平さんの「生」プロジェクトなどは、芸術家の仕事に一般の市民が関わり共に作品を創り上げるという点でも、そのお手本となるような取り組みだと感じます)

上記のような考えのもと、市民に対する芸術鑑賞支援として以下の提案します。

 1. 宝塚在住の芸術家に重点的に焦点を当てた芸術鑑賞の機会の創出
 2. 鑑賞だけではなく参加や対話を含めた多彩な鑑賞の機会の創出
 3. 市外で行われている鑑賞機会への積極的な参加促進の展開

 3は、簡単に言うと「遠足」です。例えば西宮の兵庫県立芸術文化センターで素晴らしいコンサートがあるならば、宝塚市が主催する形でバスツアーを企画すればいいというような話です。近くで素晴らしい催しをやっているのに「じゃあうちも」とわざわざ大きなお金をかけて無駄に貼り合ってもメリットはありません。むしろ近隣自治体と協力しあうかたちで(協賛というかたちを取れば参加者のチケットも安くなる?)、鑑賞するプログラムの選択幅を広げるという考えを持つべきです。なおこの場合は、ナビゲーター(引率者)として市内在住の芸術家や媒介者が同行し、鑑賞後のアフタートークなどの小さな会を行うと、地域の芸術振興としても効果的だと思います。

提案2:宝塚在住の芸術家へ 「住む」ことに対する支援を!

 地方出身の芸術家の多くは、その活躍が広く認められるようになると、自らの活躍の場を求めてより大きな都市や文化的に芳醇な海外へと移り住みます。そして彼らは、自らの活動を展開させるうえにおいて、残念ながらそれほどまでに出身地を全面に押し出したりはしません。地域の芸術振興において「世界に羽ばたく芸術家の育成」とかいうことをよく聞きますが、実は世界に羽ばたいて行ったアーティストはそれほど大きなものを地元に還元してはくれないのです。

 宝塚を芸術の薫る町にするために芸術家に求めるべきこと。それは前述の暮らす町における芸術の循環を考えるなら、世界に羽ばたくことではなく、一市民としてこの町に住んでもらうことです。

 宝塚の持つ豊かな自然や安全で落ち着いた住環境、大阪にも神戸にも近いアクセシビリティ、そして何より宝塚の文化的文脈やそれによって生まれたブランド力は、芸術家にとっても十分に魅力的です。そんな宝塚を暮しの拠点としながら、積極的にさまざまな場所にでかけていって活動し、そして宝塚に帰ってくる。同じ町にさまざまな表現を生み出し各地で活躍するアーティストが住んでいることは、市民にとっても誇りになるだけでなく、地域における暮しの中で芸術がより現実的なカタチで存在するようになるための大きなきっかけとなるはずです。

 さいわいなことに、宝塚には電車で1時間圏内に大阪・神戸・京都という3つの大きな都市があります。また東京や海外も昔に比べれば気分的にずいぶん近くなりました。さらにはインターネットの普及によって、遠距離の相手と仕事をすることもずいぶん出来るようになりました。また実際に大阪を拠点に活動する芸術家が、生活の拠点を生駒や能勢などにおく傾向は年々増えているようにも思われます。

 上記のような考えを踏まえた上で、市内在住アーティストに対する「住む」ことへの支援を提案します。

 具体的には芸術家を対象とした家賃補助や公営住宅への優先的な入居などが有効なのではないかと思います。その代わりに年に数回、市内での活動プレゼンテーションや小規模なワークショップの開催、市が主催する芸術事業へ協力などを義務化することによって、市民の鑑賞機会の創出にも繋がります。

提案3: 媒介者の発掘と活動支援を!

 なんとなくセンスのいい友人からそれまで気にも留めていなかった本やCDを薦められると、急にその良さが理解できたりすることがあります。こういう活動を意識的にしている人のことを、(正確にはなんと呼ぶかはわかりませんが)ここでは「媒介者」と呼ぶことにします。

 芸術は、それ自体が多様な価値観を受け止める大きな器ですから、その価値は本質的に保証されているものではなく、人によってうけとめかたもまちまちです。ある人によって世界で一番素晴らしいと感じる芸術が、ある人にとってはゴミ同然であることは、ここで触れるまでもなりません。重要なのはその価値にどうやって気づくかということであり、そのプロセスにおいて媒介者はきわめて重要な役割を果たします。

 芸術において一般的に媒介者と位置づけられているのは、美術館の学芸員、アートマネージャー、キューレーター、ギャラリスト、批評家などといった、いわばその筋の専門家です。しかし暮らす町における芸術循環を念頭においた場合、その幅は大きく広がります。つまり、自主的に芸術系イベントを町で企画している人、自分の店で定期的に小さなコンサートを企画しているカフェオーナー、町の面白いことを見つけて発信しているブロガーなど、そんな芸術文化のプロでない人たちも媒介者として機能します。

 また媒介者の役割は、単に誰かにわかりやすく芸術を紹介することだけでなく、芸術に新たな価値や意味を見出すことにもあります。暮らす町で循環する芸術が、必ずしも社会的に広く評価が認められたものではないことは先に述べたとおりですから、この点でも彼らの役割がきわめて大きいことは言うまでもありません。

 上記のような考えのもと、媒介者の発掘と活動に対する支援を提案します。

 具体的な方法としてはさまざまなものがあげられますが、まずは発掘という観点から彼らの活動を宝塚市として公式に認めてあげることが重要です。広報たからづかで彼らの仕事を積極的的に紹介するコーナーを設けたり(本部会の資料として配布された尼崎広報誌ではまちづくりの文脈でそれが行われていました)、市関連のウェブサイトの中に彼らの発言・発言の場を用意してあげることは、新たな予算を必要としないという点でも有効です。そしてその次にすることは、市の芸術振興の中に彼らの仕事をうまく組み入れることです。例えば、宝塚市が主催するイベントのキューレーションを彼らに委託したり、さらにそうした取り組みに対する批評活動を推進するなどが考えられるでしょう。

提案4: 循環をより潤滑に行うことを目的とした 専門家による包括的マネージメント支援

 これまで、暮らす町・宝塚における芸術の循環を起こす主体となる「鑑賞者」「芸術家」「媒介者」の三者それぞれに対する支援について書いてきました。これら三者が宝塚の町において、もしくはそれぞれの生活において、自律的に機能すれば、循環は自然発生的におこるのではと考えます。しかし、もう一押し、循環をより潤滑に行うための仕組みづくり、すなわち循環機構全体を対象としたマネージメントが必要です。

 ここでいうマネージメントとは、すなわちその筋で「アートマネジメント」と呼ばれているものと、おそらく同義であると考えいただいていいと思います。アートマネジメントは、日本においてはここ数十年で本格的に確立された、新しい分野であり考え方です。それでも研究やそれを踏まえた現場レベルでの実践はかなり進んでおり、実際に豊富な知識と経験を持った優秀な人材が数多く生まれています。

 宝塚における芸術循環をより潤滑にするために、専門家による総括的マネージメント支援を提案します。

 この件に関しては、正直自分は門外漢なので、具体的な支援の内容を示すことはできません。しかしながら他のことに置き換えて考えてみても、循環の主体となるどこにも属さず、全体を見渡し、バランスを見極めながら、それぞれを繋げる役割は、きわめて大きのではないかと考えます。 
 またこの提案の先には、神戸大・藤野先生がおっしゃられていた芸術分野における中間支援組織の設置という課題も垣間見ることができます。

補足: むしろやってはいけないこと

 気づいたら結構ながい文章を書いてしまいましたので、もうそろそろ終わりにしたいんですが、最後にどう考えてもこれはやっちゃまずいだろということを挙げておきます。

×新しい芸術施設の建設
これはもう現在の市の財政状況だけを見てもアウトです。まずは他の多くの自治体が抱える施設の多くがどうなっているかちゃんと調べてから言ってください。どうしても建てたいなら、その必要性の明確な根拠、運営の具体的なプラン、それにかかる予算などをきちんと示してください。次の世代にこれ以上の負担を強いないでください。

×「この芸術が素晴らしい」という押し付け
芸術は多様性を受け止める器であるということはすでに書いたとおりです。いわゆるマスターピースを持ちだして「いいものはいい」的に特定の芸術を押し付けることは極めてナンセンスです。地域の文化振興において特定の分野の芸術に力をいれるのであれば、むしろその分野と地域との繋がりにおいてその重要性を示すべきです。

×政治的手法によって進められる文化条例策定
ちょっと次元の違う話ですが、この研究会で個人的にすごく気になる部分はやはりこれです。前回の分科会でも申し上げましたが、こと芸術/文化に関しての決め事は十分な時間をかけて馬鹿正直にやるくらいでもいいのではと考えます。腹の探り合いのようなやり方で決められた文化条例など誰も喜ばないのでは?

以上、長々となりましたが、箇条書きの提案だけでは趣旨が伝わりにくいと考え、自分なりの考察と説明とあわせて記しました。


たぶん、誤字脱字もいっぱいありますがそこはご容赦。僕は大阪のアートNPO周辺で交わされていたこの手の議論をなんとなく聞いていたのでそれっぽいことは書いてますが、正直学問としてのアートマネージメントが実際のところなんなのかすらもよく知りません。まあそれでも自分で言うのもなんですがよくかけたなあと。

ちなみに最後の一枚を見てもらえれば分かるんですが、この「薫る会」にはこんなご時世にもかかわらず市民ホールぶっ建てろとかいう諸先輩方(だいたい団塊以上)も結構いたりしてかなり面白いです。あとなんだかよくわかりませんけど、政治的に振る舞うのが趣味みたいな人もいたりして、なんつーかいろんな意味ですごいなぁーとw

最後にPDFも張っておきます。興味のある方はどうぞ。(PDF /500KB

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