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「穴」

2011年10月16日 | 岩淵拓郎の仕事 | del.icio.usに追加 | はてなブックマークに追加 | livedoorクリップに追加

先日のOCA!シンポジウム公演「こころのたねとして 2011」で朗読したテキスト作品です。

「穴」

 今朝の日記。相撲取りはなぜフンドシ姿なのか。あのようなほとんど裸みたいな格好をして人前で戦う競技は世界中見渡しても例がない。肌を出すという点において、リオのカーニバルでは女はほとんど裸であるが男はみな服を着ている。先日天王寺で限界まで短くしたパンツを履いている若い女性を見かけた。男がそんなものを履いて街中を歩けばどうなるだろう。しかし相撲取りは全員男で、しかもほとんど裸である。これはなぜか?

    *********

 生まれは北海道の旭川。絵を描くのが好きな子どもだった。学校にはずっと自分の絵が飾られていたし、郡の代表として絵も描いたこともあった。だから将来は絵描きになりたいと考えていたけれど、結果的にそれは叶わなかった。私の家は小作農で、画塾はおろか、学校の月謝を払うことすらままならなかった。中学に入り、加藤勘十の「農民の旗」と出会って、「読書会」という名の研究会を作った。小作人に混じって運動に加わることもあった。三年になっていよいよ貧乏で学校を辞めなければいけなくなったとき、美術の教員からの申し出で二年間その先生の家で世話になりながら絵の勉強をした。それでも美術学校の受験には失敗した。わたしが受験したのは日本画科だったが、わたしまわりに日本画を教えられる人はいなかった。
 その後、東京の大学に入学し、のちの人生で「東京のお父さん・お母さん」と呼ぶ夫婦と出会った。いたく気に入られ正式に養子にならないかとも言われたが、旭川の父と兄が反対した。在学中、今で言う「反戦運動」のようなこともしていた。演説中に立ち会いの警察官と口論になり留置場に放り込まれたりもした。その時は知人の偉い弁護士に口を利いてもらって事無きを得たが、おかげで卒業後の仕事はまるでなかった。治安維持法。知り合いをたどって、結婚したばかりの妻と満洲へ渡った。
 満州での処遇はきわめて良かった。私は協和会の職員となり、やがて青少年団の誇り高き北満代表となった。財布などなくともどこでだって飲み食いできた。特務機関長が迎えに来ることさえあった。二十六歳の時、関東軍参謀会議の特別客員に任命された。どうしてそんな大役を任されたのかは分からないが、とにかく人望だけは厚かったと思う。わけも分からないまま都市対抗野球に出て大恥をかいたこともあった。
 しかし、突然のソ連参戦によって状況は一変した。終戦。何千という日本人の死体を収容し、山に埋めた。そして命からがら日本へと引き上げてきた。昭和二十一年十月十日、リバティ型輸送船にて博多港到着。そのまま大阪の今宮町にある妻の実家に身を寄せた。
 賑やかな歓楽街。カフェー、スタンド、食堂、玉突き屋とマージャン屋。数えきれないほどの店が立ち並び、昼も夜も多くの人が行き交った。芸人もたくさん住んでいた。街全体が熱を帯びていた。しかし私にはその熱がなかった。爆撃でぽっかいあいた穴のように、何かが失われていた。

 わたしは 歴史から こぼれおちた
 わたしは 人生を おいてきてしまった

 穴にはいつしか雨水が溜まり、池になった。そしてある日、埋め立てられ、その上に映画館ができた。

    *********

 世の中は疑問だらけである。知らないこと。知っていても分からないこと。分かっていても納得がいかないこと。何を見ても疑問だらけだ。だからそれらを忘れないよう日記に書き留める。朝。昼。夜。真夜中に目が覚めた時に書くこともある。日記だけではない、絵も描くし、唄も詠む。毎朝、新聞にも目を通すし、テレビのスポーツ中継だってみる。そんなことを何十年も続けてきた。おかげで疑問は減るどころかどんどん増える一方である。面白いし、飽きないが、こんな調子では死ぬに死にきれない。
 社会に対しても疑問はたくさんある。金がなければ墓も買えないなんてそんな話があるだろうか。国会が男ばかりなのは何故だ。女ばかりの議会を作って三院制にするべきだ。宗教は何をしている? いまや銀座や祇園は会社の御曹司のような坊主ばかりらしいじゃないか。原発事故の話だって、今さら何を言ってるんだ。もう疑問だらけで、腹が立つ。それでも今は食べていける分、昔に比べればずいぶんとマシだ。みんな酒を飲んで、その辺の店て旨そうなものを食ってる。何が釜ヶ崎だと言いたい。

 こんな私だけれど、かつては昔のよしみでなにかと世話をしてくれる人や、興味を持ってわざわざ訪ねてくる人もいた。しかし今となってはわたしが何者であったかを知る人はこの世にほとんどいない。この界隈でわたしはまともに歩くことすらできないただのオイボレだ。しかしそれでもかまわない。今さら名前を売ってどうしたいわけでもなければ、そもそもこれから何十年も生きるわけでもない。誰に見せるわけでもない絵や日記を書き、それで一日がすぎる。それで十分満足している。

 それでも、もし誰かが、これからの世の中について相談したいと言うのならば、わたしはわたしの知っていることを語りたいと思う。おいてきてしまったわたしの人生について。そしてその時代について。

 秋葉忠太郎。九十八歳、もうすぐ九十九になる。持病は金欠病。おかげで財布はキューキューと鳴いとるよ。あぁ、なんとも阿呆らしい。

忠太郎さん、ありがとうございました。またこんどご挨拶にうかがいます。

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