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「スーパーサイズ・ミー」

2005年07月07日 | 映画・映像 | del.icio.usに追加 | はてなブックマークに追加 | livedoorクリップに追加

2004  アメリカ
監督:モーガン・スパーロック
配給:クロックワークス、ファントム・フィルム
オススメ度:★★★★


「華氏911」でも思ったことだが、アメリカという国で生きる人々はどうやって民主的希望を持ちうるのだろうか。意識することすら難しいほどにすでにそこにある強大な商業主義と、そのことによってしか動かされることのない政治力。逆説的だが毎日ハンバーガーでも食ってなきゃやっていけないのかもしれない。

ドキュメンタリーとしても、エンターテイメントとしても、そこそこバランスの良い映画である。全体の構成がしっかりとしていて、ひとつのストーリーとして純粋に楽しめる。監督のモーガン・スパーロックは心身ともにそれほど「色」を感じさせない人物で、マイケル・ムーアのように個性でストーリーをひっぱっていくタイプではない。しかしだからこそある種のプロパガンダ性からちょうどいい距離が保たれているように感じられるし、結果的に私たちは作品そのものではなくそこで扱われるテーマについて考える気になるのだ。

この映画で扱われるマクドナルドはアメリカ的商業主義を語る上での象徴であり素材でしかない。結局のところアメリカ人はこの映画の中で暴かれたような極めて戦略的で無意識的な影響下の中で暮らしているということである。もはや誰もが知っていることだと思うし、それに対する有効な解決策などなかいのかもしれないのだが、やはり事実を突きつけられたことのショックは大きい。それもその事実が「肥満」「肝機能障害」「躁鬱」などという非常に身近な内容であるというのも説得力がある。ただ冒頭で触れたように、これを知ったところで果たして彼らには何らかの打つべき手が見つかるだろうか? むしろ一事が万事その調子であると状況を悲観したとき、「もういいや」と全ての問題を投げ出してマクドナルドに向かう可能性の方が大きくはないだろうか? アメリカ人のようでアメリカ人でない日本人の私はそんなふうに思うのである。

「とにかく知ってもらうことが大切」 以前、劣化ウラン弾をテーマとしたドキュメンタリー映画「ヒバクシャ」の監督・鎌仲ひとみ氏もそんなふうに言っていた。もちろんそのことは重要であるし、全てはそこからしかスタートしえない。しかしそこが問題解決の到達点ではないことも事実だろう。だとすればそこがドキュメンタリー映画、もしくは表現の限界なのか。そこから先に進むためには小林よしのりやムーアのように直接行動をおこす以外に手はないのか。だとすれば表現とはそもそも実効性を伴わないものなのか。それこそ投げ出すようなモノ言いでもうしわけないが、私にはあまりに問題が大きすぎてまだ分からない。それでも知ったのだから考えることは続けていこう。

ちなみにこの批評を書く前日に、最初の問いに対する具体的な解答が知人からあったので記しておこう。「大丈夫。西海岸と東海岸に住む一部のアメリカ人以外はみんな牛みたいなもんだよ」 あー、けっきょくそこかよー!!!

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